平成と私 vol.1

私は昭和55年生まれ。1980年。松坂世代です。

平成という元号になったことを知ったのは、たしか母に連れられ歩いていた渋谷。大型スクリーンの映像でだった気がします。平成ってなんかイマイチだよね。そんなことを言いたがるお年頃、親や学校の友達にドヤ顔でそんなことを言ってた気がします。当時8歳、小学2年生の1月。

あれから30年。何を成したわけでもありません。松坂世代であっても、松坂ではなく、何者でもありません。
でも、この機に振り返って記憶をじっくり辿ると、案外涙が出そうになるほどに、いろんなことがあって、たくさんの人と出会って、泣いて、笑って、悩みながらも苦しみながらも、嬉しかったり感動したりしたことが溢れ思い出されてきます。特に何にもない人生だったと思いがちですが、そんなことなかったんだなって、今やけに思えます。別に人生の節目でもないのに、なんだかやけに。

小さい頃から苦しいことに向き合わず、居心地のいい方にばかり向かう子でした。あの頃からすでに「負けず嫌い」という言葉とは無縁の、「悔しい」「なにくそ」という感情を持たない自分で、「うまくいかなければやめる」「うまくいかなさそうだったらやらない」子でした。サッカーが好きで得意な父が、「とってみな」とサッカーボールを足で扱い、取りに行こうとするとかわされる。ちょっと頑張ってダメだったらもう取りに行くのをやめて、母とバトミントンをしに行く。そんな子どもでした。なんとなく、自分があっさり諦めて去ったあと、父が一人でサッカーボールをいじっている姿が今でも思い出されます。今思えば、寂しかっただろうなと。「崖から突き落とされても自分の力で登ってこい」というタイプの人や言葉は私には何も意味がありませんでした。そして、今もなお、「負けたくないから頑張る」と思うことも、これまで思ったこともありません。

(ちなみに、昨年受けたストレングスファインダーの全34資質の中で最下位にあったのが「競争性」だったことは、必然なのに、正直とても衝撃でした。)

そんな私ですから、勉強も、習い事の水泳もピアノも、ぼちぼちしかやらない。大会とかコンクールとかで上を目指す気持ちはなく、徒競走で一番になりたいと思ったこともないのでだいたい6人中4位。ビリにだけならない。そんな子ども時代でした。

何も考えてない、特に頑張らない、大人しくて聞き分けがいいだけの子だったのかもしれません。

そんな人生で、初めて大きくストレスを抱える事態になりました。

日能研です。

小学四年生くらいになると、友だちが塾に通い始めます。普段無邪気に公園で一緒に野球とかしてたはずの友だちが、定期を持って見せてくれる。塾に興味はなかったけれど、とにかくその定期が羨ましかった。ちっちゃい頃から電車が大好きで、切符とか集めていた子でしたので、お父さんが持つ定期券は、大人しか持てない、それはそれは憧れのアイテムだったのですが、それをなんと友だちが持って使っている。駅員さんに見せるだけで顔パスのように通り過ぎるあの感じ。キラキラしてみえました。

それだけの理由で母に言って通うことになった日能研たまプラーザ校。自分にとって暗黒の2年ともいえる期間でした。学校でのテストはできる方でしたが、塾に入ると9クラス中下から2番目のクラス。それなりに勉強して下から4番目のクラスにまでは上がったあたりで、すっかり嫌になっていたのです。成績のいい順で席が決まり、毎週のテストのたびにビクビクしていました。競争に興味がなくても、悪ければ怒られるし見せしめにあう場だったからです。そして当時学校でも塾でも、先生は生徒に暴力をふるっていました。今なら即アウトなことはいくらでもありました。当時の日能研でも、とある国語の先生がテキストで生徒を思い切りひっぱたくのは当たり前で、本当に嫌でした。そこから、塾に行ったふりをして行かない、早く着いてるのにあえて遅刻する、そんな日々が始まり、当たり前ですが、クラスはどんどん落ちていき、結果一番下のクラスに。

親にも黙ったり嘘をついたりしていましたが、バレたときに、父親から朝背中を蹴り飛ばされたことは忘れません。暴力をふるうことなどなかった父の唯一の思い出です。

このあたりから、身体中に湿疹がでてブツブツでいっぱいに、その湿疹に貼るセロハンテープのような薬が原因で、学校でいじめられるようになります。悔しいという気持ちのない子だった自分は、ただつらいだけの日々。無視されるは給食にものを入れられるは、セロハンテープ上の薬をもじってエロファンとか言われたり。やりたくもない学級委員を押し付けられそうになって泣いたこともありました。

でも、ある日佐藤先生という担任の先生がイジメに気がつきます。その先生はアトピー持ちの先生で、道徳の授業が何かの時にこのいじめを取り上げ、「肌に悩みを抱える人のつらさがわかるか!!」と涙を流しながら伝えてくれたのです。

その日から、いじめはピタッと止まりました。そして、いじめていた中心人物だった子が、今度はいじめられる側になったのです。前まで散々いじめてきた子たちが、仲良くしようと自分に寄ってくる。そのいじめる側から逆転した子も、自分を頼って寄ってくる。

昨日までのことなど、今日何もなかったかのように一変する。明日も何が起こるかわからない。

これが自身の人格形成上、とても大きく影響したものであることに気づくのは、そこから10年以上経った頃です。

その後小学校6年生の夏、幸運にも商社勤めの父の転勤で、アメリカはニューヨークに引っ越すことになり、中学受験もしませんでした。引っ越すときにクラスのみんながくれた寄せ書きを何度も何度も読み返して、好きだった子のことを思い、はまり始めていた音楽を聴いて泣いていました。

話は逸れますが、祖母が亡くなったときに車で聴いた杉山清貴、アメリカに向かうときに聴いたTUBE、そしてもっとも聴いていたチャゲアスが、心と音楽を重ねる人生のはじまりでした。言葉にとても惹かれる自分のはじまりでした。そこから今になり、言葉をつむぐことが自身の仕事になっていて、自分の価値観の根幹にすらなっていることは、とても不思議な必然だと感じています。(もとでさえ長い話なので、音楽の話はここまでに)

外交的だとは言えなかった自分で、しかも、高校受験のタイミングも鑑みて、私は現地校ではなく、日本人学校へ。現地の日本人向けのキャンプで出会ったかけがえのない友人が、自分の人生を変えてくれたと思います。

ニューヨーク日本人学校のみんなは、とても明るくて、素直で、歌ってバスケしてゲームして、学校にいくことがただただ楽しかった。学級委員になることを泣いて拒んだあの日が嘘のように、一つ上の上級生に嫌われながらも生徒会長に立候補し、当選することにまで。あれだけ人前に立ちたくなかった子が、人前で話すことに喜びと生きがいを感じて過ごすようになりました。今思えば中身のない演説でしたが、それでも今でも覚えてくれていると言ってくれる友人がいる。優しく温かい友人に恵まれた日々でした。

日本人学校に通いながら、enaという塾のニューヨーク校に通います。初めは大した成績でもなかったのに、ある先生との出会いから、人生で一番、そして唯一、勉強が楽しいときを過ごします。その先生のもとでは、できないことができるようになることがとても嬉しく、ときに偏差値30台だった数学ですら、65以上取れるようになって。開成や灘、慶應女子の問題ですら、解けない問題はない気がする。そんな状態になって、順位表にも載る日々。先生と話してて楽しくて、仲間といると嬉しくて、泊まり込みで過去問解きまくるのもむしろ楽しい。そんな時期があったんです。(まさか高校で数学が大嫌いになり微分2点、積分5点をとって学年最下位になろうとは)

出会いによって、機会によって人は変わる。自分のように日能研最下位クラスだった子でも、いい方向にも良くない方向にも。いじめられっ子にもそうでない子にも。人や世界の虚しさに、繊細さに、人一倍敏感でありながら、可能性を信じる気持ちの土台は、こうして作られたのだと思います。

人とはこういうものだ。
大きくなってから変わるのは無理で手遅れ。
そういう論調の話に対して強く抵抗感があるのは、こんな経験があるからなのかもしれません。

(つづく)

つむぐ

キャリアカウンセリング、採用支援、エージェント育成支援などを行っています。

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