平成と私 vol.3

おかしい。明るい思い出があまりにない。
大学での四年間、春も秋も嫌いになった。
あれもこれもしたのに、何も残らなかった。
大切に残してきたはずのものも、なくなってしまった。

どんな学生時代でしたか?
そんなオトナの問いに、あの頃何と答えたのだろう。

「バンド活動に打ち込みました」

とにかくたくさんの音楽と出会い、仲間と奏で、音楽が本当に好きになりました。ひたすらTSUTAYAでCDを借りて、MDに落としまくる。純粋に楽しんでいたし、知っている音楽が増えていくことが、そのまま自分の価値というか居場所というか、アイデンティティなんだと思っていました。

それまでのポップスやロックに加えて、ジャズ、ファンク、フュージョン、R&B、テクノ、歌謡曲、オルタナティブな、ダークな音楽も好きでたくさん聴いて、自分らしさのようなものを感じていた日々。

一人で音楽を聴き、涙し、こんなふうに感性丸裸で過ごす時間を、何より価値があると思いながら過ごした4年間でした。

という、全体のお話です。
なので、そんなに楽しいお話は出てこない気がして、書きながら少し筆が遅くなってしまいました。

高校を卒業して、受験なく大学に入りました。外部生と言われる大学から入ってきたたくさんの人たちと混じる4月。キャンパスは新歓と呼ばれる部活やサークルの勧誘イベントで賑やかに騒がしく、どの授業を取るかを話し合ったりする期間。何も考えずテニスサークルの花見なんかに行ってもみました。多摩川の花見スポットは学生だらけで、ひたすらなんとかゲーム(山手線ゲーム、せんだみつおゲームとか)をやらされて一気飲みさせられまくる。飲みのコールなんかとも無縁な高校時代でしたので、全然知らなくて、ひたすらやっぱり飲まされる。(今はもうこういうのないんですか?)

一年生は必死で飲む。飲むだけじゃなくて、なんだか色々必死です。いい人アピール、友達になろうアピール、幹事やりますリーダーシップアピール、人と人をつなげようアピール、これは新歓だけじゃなくて、新しいクラスでも、サークルに入ってからも当面そうだったり。

はじめの授業にいくと全席に家庭教師のバイトのビラが置いてあって、数週間経って気がついたらみんなカテキョーのバイトしてる。時給2000円とかみんなで時給アピール。私は高3から始めていた地元のドラッグストア、800円のバイトでしたので、なんかネタにもならず「またつまらない話だな」なんて思って聞いていました。

私の学部は法学部政治学科。経済学部とか商学部とか、そういうのに興味ないし、法律学科いくほど法律に興味もない。今思えば文学部とかで心理学とか勉強していればよかったのですが、高校の成績的にぼちぼち成績を取ってないといけなかった政治学科に行けたので、行かないのももったいない気がして、あと、なんとなく政治と聞くと人くささがあるのもあって選んだだけの学科。

授業に出ると、政治学、政治思想、マクロ経済、ミクロ経済、日本政治に国際政治、何にも意味がわからない。なんでこんなにおもしろくないのか。そんなことばかり考えているうちに、まず、一限(午前9時開始)に行くことがほぼなくなりました。徐々に二限もいかなくなって、なんとなく午後の三限から、ときに四限から、と、怠惰な学生生活を送ることに慣れていく日々。

試験のときはたくさんの優しい友人のノートを片っ端からコピーさせてもらって、当落ギリギリ当のときも落のときも、際どいラインの科目ばかりでした。

バンドの練習だけはかろうじて行っていたものの、それでも最低限。ときに遅刻もして。

ちなみにサークルはバンドサークル。柄にもなくアシッドジャズを中心としたオシャレ系な曲をメインで扱うサークル。にもかかわらず、私たちの代はハードロック、日本のアイドル、歌謡曲と、サークルの意向に反する選曲ばかり。はじめは先輩も面白がってくれていましたが、徐々に煙たがられるようになり、さらに反発して外れていく。そんな大して意思もなくただ生意気な一年生時代。とってもうまい人がたくさんいたけれど、そんな人たちのレベルを目指して頑張るようなこともなく、「これが自分」と言い訳がましく過ごしていたのでレベルも低いまま。結局は二年生の夏までいて、辞めてしまいました。

そんななかで、自分の日々の中心にあったのは当時の彼女でした。高校三年生のときに文化祭で告白して付き合った彼女です。著名な作家さんの娘さんでした。お宅にもたくさん遊びに行って、ご両親にもたくさん面倒をみていただきました。彼女にも色々としてもらいました。世間知らずな私に、たくさんのことを教えてくれました。おしゃれとは程遠い私に服を選んでくれたり、美味しいお店を教えてくれたりもしました。お父様のボイトレの先生もつないでいただきました。でも、その機会は無碍にしました。

彼女は絵を描く人で、大学に通いながらダブルスクールで美術の専門学校にも通っていました。授業もちゃんと出る人でしたし、バンドもやってギターもしっかり練習してくる。そして、アーティスティックな人でもあって、おしゃれでした。しっかりした人でした。

とにかくただ好きで、彼女がいてくれることだけが、自分の唯一の存在価値だったのだと思います。彼女がいてくれたことで、怠惰で努力もできないダサい格好の自分も、胸を張って生きられていました。ダメな自分を意識すらせず生きていました。

そして、彼女とはずっと一緒にいるものだと思っていました。

二年生が終わる頃だったでしょうか。
彼女からイギリスに留学にいくと告げられました。しかも翌月とかから。急な告白でした。明確に別れようと言われたわけではなかったけれど、前しか向いていない姿、お互いにそれぞれの場所で頑張ろうねと。話しぶりから、別れるんだなと悟りました。

空港まで見送りに行き、飛行機が飛び立って見えなくなったとき、からっぽで何にもない自分がそこにいました。当面はご両親への感謝の手紙を書いたり、スキマスイッチの「奏」のような曲ばかりを集めて聴いたり、深く暗くセンチメンタルになっていましたが、今思えば、そんな自分に酔っていただけだったのだろうと思います。

彼女のことを思い、彼女のためにいてあげてる、好きであることも、すべて、自分のため、ただの独り善がりだったことを知ります。

留学から半年か何かが経った頃、文通もしていなかった彼女から、不意に手紙が届きます。

そこには、「これまであげたものは全部捨てるように」そして、「あなたは自分のことしか考えていない」、「全部自分のため」、そんなメッセージ。喧嘩別れしたわけでもなく、笑顔で見送ったはずでした。久しぶりに届いたメッセージは、ただただ胸が痛く苦しくなる内容でした。

今であればわかるこの内容も、当時はまったくわからなくて、ただ痛くて、切なくて、寂しくて。からっぽな人間であることを自覚しました。

(どこまでいっても、空虚な自分。今であればわかるとは書いていても、大前提が空虚で独り善がりな自分は、きっと変わってなどいない。人を思いやって優しく接することは、どこまでやっても、やったつもりでしかないし、そう思うこと自体も独り善がりで、逃げ場などない。私の優しさなど、誰のためにも、何のためにもならない。優しくありたい。あれからずっと、そう自分に言い聞かせて生きています。)

そんな空虚を埋めたくて、高校時代から続けていたドラックストアのバイトにも顔を出さなくなり、少しの憧れのあった渋谷のお洒落な飲食店でのバイトを始めるも、キツくて休み、無断欠勤の末辞めてしまいました。

もう戻れる場所なんてないと思っていたのに、何も言わずにシフトを受け取ってくれたドラッグストアの店長をはじめ社員さん、変わらず温かく受け入れてくださったパートさん、アルバイト仲間のみんなに、心から感謝しています。

そんな私です。大学三年生となると、私は周囲がほとんどみんなゼミに入りますが、私はゼミにも入らず、無気力な日々を過ごしていました。時折仲間にしてもらえるバンド活動と、ドラッグストアのバイト。ゼミにもサークルにも属さず迎えた三年生のときの学祭の終わった夜の寂しさは、その後今も忘れられずに心に刻まれています、11月の東京タワーの冷たい煌めき、当面涙が出てくる景色でした。

そのなかで、何か一つやってみようと、とある芸能事務所の養成所に応募します。以前の彼女が撮ってくれたポートレート写真を使って。

お芝居は未経験でしたが、受け入れてくれたところがあり、学校にもいかず、バイトだけ二倍増やして、そのスタジオに向かう日々。

はじめてのお芝居で、自分が最も輝いたのは、エチュードでした。即興劇です。すべての神経が研ぎ澄まされ、心と頭がフル稼働する感覚。どんな設定でも、これでもかと言葉が出てくるのです。スタジオを即席で小劇場にした舞台、「12人の優しい日本人」。三谷幸喜の作品。確か陪審員3号だった気がしますが、これまで出会わなかった色々な年齢、経歴、キャラクターを持つ人々との時間は、とても楽しかったです。本番はこれまでに経験したことのない充実感をもって終えることができました。

でも、そのタイミングで、もう、大学三年生が就活をしていることなど、気づきもしなかったのです。

ある日母親から、「なんで就活しないの?」と問われ、「お芝居でやっていきたい」と答えました。

母は、三日三晩泣きやみませんでした。

いい高校、大学に入れて喜んでくれていた母。総合商社とか、一流大企業に入ってくれると思っていたはずの母。

私はその思いを、踏みにじったのです。

「あなたなんか育てなければよかった」

とまで言われ、心の底から落ち込みました。沈んでしまいました。

三日三晩、悩み続け、私は就活することを決めました。しょぼいし情けないと、笑われると思います。ここまで育ててくれた母の思いを踏みにじってまでもお芝居をやりたいわけではない。ただ逃げ場でしかなかったお芝居、実際にトレーニングや練習も、中途半端でしかなかった私でした。軸も芯もない私には、やはりハレーションから逃げる道しか見えようもなかったのです。

私が就活をし始める頃は、もう周りの友人はみんな終わってる時期でした。

そんな私にやりたいことなどなく、なんとなく見ていたインターネット、ヤフーのトップページに出ていた採用のバナーをクリックして、そこから内定が出ました。当時テレビコマーシャルが話題だった、人材派遣の会社です。

一次面接は人事の男性でした。「お芝居やっていたんだね。お芝居のどんなときに嬉しかった?」と聞かれ、「お客さんが終わった後余韻を感じて席を立たずにいてくれるときです」と答えたことを覚えています。それ以外は、どうしようもないことしか言わなかったと思います。二次面接は怖いおじさん、最終面接は会長面接。学生6人の集団面接、一問一答だけの流れ作業。即日で電話があって、内定と言われました。

大量採用の流れにたまたま乗って、おそらく面接の内容とかではなく、大学別の採用目標の充足でしかなかったのかもしれませんが、それでも内定をとって苦痛でしかなかった就活を終えたい気持ちで、そこに決めました。

「やりたいことがわからなかった。わからないならどんな業界も仕事もわかるところにしようと思った。人のいない会社はいないから、人材にしようと思った」

それが1社目に決めた理由を話すシーンで伝えている表向きで後付けの内容です。

まさかそこが、鬼軍隊の会社でとてもキツいところだなんて、何にもわからない自分では、想像すらしようもありませんでした。そして、そこが自身が一貫して人にまつわる仕事を続けるきっかけになろうとは。人生の大きな転機を、人生最大の出会いを生む場所になろうとは。

母は、就職してくれるならいいわと、諦め苦笑して言いました。

そんな就活を終えた私は、また何にもなくなりました。ですが、色々あったことで、少し前より一生懸命にバンドをやっていたと思います。思い出に残るライブもいくつかあってくれました。

そして、みんな単位を取り終えて卒業旅行などをしているとき、ギリギリの攻防戦を繰り広げていた私は、四年生でもっとも大学に行っていました。

よくよく考えたら、よく留年もせず卒業できたなと思います。ノートをコピーさせてくれた友人や後輩のおかげです。これを書きながら、今からでも改めてお礼をしたいと強く思います。

卒業間近の3月下旬にやったレッチリのコピーバンドのライブ、ライブ前に1000円カットで坊主にして、大人用おむつで歌いましたが、幸せでした。

就職する不安に押しつぶされそうになりながら、卒業式に出て、みなとみらいの夜、友達が集まっていたインターコンチネンタルの一室、ふと外出して戻ろうとしたらホテルの人に見つかり、入れてもらえず、寒空の下横浜港を眺めていました。それが大学生活の、終わりでした。

そして、3月31日、新幹線に乗り、大阪か京都かでの入社式に向かったのでした。

坊主頭で。

追伸
vol.2で書いた、中学時代好きだった人とは、大学で再会しました。大学一年生のとき、いきなりDをとって落としたスペイン語。再履修のクラスで、海外からのため半年遅れて入学してきた彼女と同じクラスでした。そこから何のドラマもありませんでした。

つむぐ

キャリアカウンセリング、採用支援、エージェント育成支援などを行っています。

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