平成と私 vol.4

警察呼ぶと 言われても 恐縮ですと パンフ置く

私が新卒一年目の研修か何かの発表で言って笑いが取れた言葉です。

新卒として入社したのは人材派遣会社。後発ながら業界最大手(今はなき闇の帝国K社を除く)に駆け上がってきた、ゴリゴリとした営業が売りの鬼軍隊な会社でした。

椅子やら灰皿やらを投げる、「今すぐ目の前の山手線の線路飛び込んで死ね!」と電話越しに叫ぶ、営業本部長や社長や会長がフロアに来れば一斉に立ち上がる。営業の行動を監視する闇の部隊があり、後をつけられたり、企業に電話で「うちの営業きましたか?何置いていきました?」と確認して、違和感があれば脅迫めいた電話がかかってきて、「何色の服着てた?言ってみ?」何を答えても否定され、虚偽認定しにかかってくる。自分にも一度かかってきたし、泣きながら対応してる同期もいた。「虚偽認定されると地方の製造業のラインに飛ばされ戻ってこれない」なんて話があって、みんな必死で潔白を訴えたし、それがきっかけで辞めた人もたくさんいました。

人材派遣の営業はピザのチラシ配りと同じ。誰がするかなんて関係ない。君でなくてもいい。会社ごとに登録しているスタッフの差なんてない。となれば、人がほしいときに一番すぐ出てくる営業の名刺とパンフのところに電話する。君らもピザを頼むとき、電話のそばにあるピザ屋にするだろ?ドミノじゃなきゃとかピザーラじゃなきゃとか、ほとんどの人にはないのと同じ。

だから、いくら名刺を破られても、目の前でパンフをゴミ箱に捨てられても、毎週一回二回と飛び込み、訪問しつづけて名刺とパンフを置いてくる。クレームを受けても、それでもまた行って名刺とパンフを置いてくる。それでも人がほしくなったら、「いつもよく頑張ってきてくれるね。実は人を探してるんだけど。」と手のひらを返してニコニコ電話かけてくるから。と。

オリコン派遣会社満足度調査、だいたい最下位。とある同期が会長講話のときに勇気を出して聞きました。

「この満足度調査最下位について、会長はいかがお考えでしょうか?」

会長の答えは一生忘れません。

「早く仕事に就きたい人にどこよりも早く仕事を提供する。早く人を見つけたい企業にどこよりも早く人を提供する。それ以上のCSって、君はなんだと思う?」

会場中が静まり返った。誰も何も言えなかった。

ピザのチラシ配りのくだりも、この満足度調査のくだりも、圧倒的に正論であり、それで数字があがり、業界最大手にまでなっている事実。あのとき何も言えなかった気持ちは、今も消えません。正論であれ、それでも何かが違うと思い悔しかった。私が今もなお何かに抗うとすれば、この会長の正論なのだろうと思うのです。

でも、私は人に恵まれました。
同期がとっても仲良くしてくれました。フロア間の階段を覗けば誰かが泣いてたりしました。でも、みんなで支え合っていました。飲みに行ったり、同期の寮の部屋で朝まで過ごしたり、同期で旅に出たりもしました。

私に関しては、上司にも先輩にも恵まれていました。私の上司も先輩も、本当に優しかったです。可愛がってもらえました。

まだ入社数ヶ月の頃、私がとある企業に飛び込んだときに、そこの人事から「二度と来るな!次きたら警察呼ぶわよ!」と言われたことがありました。そのときは気が張っているので「恐縮です!」と言って、一セットでいいのに、なぜか名刺とパンフを二セット置いて「失礼します!」と言って出てきましたが、出た途端、ボロボロ涙が出て止まらなくなりました。(これまでの話を読んでくださった方には、私が「警察呼ぶ」と怒鳴られるような経験も強さも鈍感さもないことはご存知かと思います。)

支店長に電話で、泣きながら「警察呼ぶと言われました」と報告すると、「おぉ!よくやった!おし、俺も警察呼ばれに行ってくるわ!」とわざわざ駆けつけてくれ、私が出てきた企業に一人飛び込んで出てこられ、「おっ!呼ばれてきたわ!」と笑顔で背中を叩いてくれました。心底支店長をかっこいいと思った瞬間でした。

そんな仕事でした。担当エリアは池袋を中心に、新大久保、高田馬場、西武池袋線など。今住む練馬界隈も、当時のエリアです。ひたすらエリアのビルに飛び込む仕事。西池袋一丁目の歓楽街の古い大きなビル。「やべぇ!このビル、すげぇ数の会社入ってる!件数稼げる!ひゃっほうー!と思って調子に乗って飛び込んでたら、物の見事にヤクザさんの事務所に飛び込んでしまい、入った瞬間目の前に立派な神棚。パンチパーマでジャージのお兄さんが「おうおう!みんな!営業さんだよぉぅ!」と手をパンパンと叩いてみんな集まってきて「兄ちゃん、何か話?」と言われたときは、怖かったです。懐かしい。

そんな仕事に慣れ始める中、入社数ヶ月後、私は一人の女性を好きになります。多分、一目惚れだったのではないかと思います。過程の記憶はなく、気がついたら好きになっていました。

なんとなく社内報の新入社員一覧の中で、ほんとになんとなく、気になっていた人。たまたま仲良かった同期と飲みにいくときに彼女が一緒にいて、やっぱり気になって。

まん丸い顔をして、目が少しタレ気味で、八重歯がチラッとみえて、しっかり者な感じの人。いつもニコニコして笑顔がふにゃっとしてキラキラして。

彼女はサルサを踊るのが趣味という話になって、サルサが何なのかは全然知らなかったけれど、音楽とかの話ができるのも嬉しくて、よくわからないのに、「俺も行ってみたい!」とか言ってサルサのクラブについて行きました。初心者レッスンで彼女とも少し手を取り踊り、そして、フリーの時間でしなやかにキレキレに楽しそうに踊る彼女の姿を見て、かっこよくて美しくて、さらに好きになってしまうのでした。

二人でご飯に行ったりして過ごした日々を経て、彼女の誕生日。手紙を書き、六本木のゴトーフローリストで買った向日葵の花束を持って、彼女の家のある駅まで。彼女は外出中で、その駅に終電で帰ってきました。よくよく考えれば、当日になっていきなり待っていることだけ伝えられて待たれるという、迷惑極まりないことをして、なんとか会えて、「誕生日おめでとう。」とだけ伝え、花束と手紙を渡して、帰れるふりをして去るという。どこかの駅まで電車で行ってタクシーか深夜バスかで帰ったのだろうと思いますが、なぜか、どう帰ったかはあまり覚えていません。それくらい高揚していたんだろうと思います。

その翌々日の仕事の後、夜遅く、手紙の答えをもらいたいと、会社のあった紀尾井町から四ツ谷の線路沿いの緑道まで歩き、ベンチに座り、回答に困る彼女の、何気ない「ドキドキさせてくれるの?」の言葉に、「示すときだ」と勘違いし、勢いでキスをして、付き合うことになったのでした。冷静に考えて、勘違いして失敗していれば、私はセクハラで消えていました。

今のおかみさんとの出会い、お付き合いの始まりです。その後夫婦になり、今も一緒にいますが、2003年、16年前のことです。

二人でいるときはとても楽しく、同僚にも恵まれ過ごしていましたが、徐々に新卒として甘やかされる色は減り、同期もそれぞれの場所で数字や責任を負う度合いが増し、仕事自体はただ苦痛なものにしか感じなくなりました。ただ追われるだけの日々、油断すれば激しく詰められる。理不尽なことばかりを強制される。同期も心や体を壊し、バタバタと休んだり辞めたりしていきました。

そんななか、おかみさんも体調を崩し、会社を辞めていきました。彼女が体調を崩したことを彼女の周りの同期から聞いたときは悲しくて悲しくて、当時の先輩に慰められ励まされました。

その流れのなか、私も顕著に成果があがらない時期が訪れ、レスキューと言われる、支店長より上の立場の人たちからのマーク対象となりました。一件一件の訪問後すべて電話をして報告するのです。

企業からコールセンターなどに連絡があると、そのエリアの担当営業は25分以内にその企業を訪問しなけらばならないルールがありました。そこから2時間以内で人選して人を出さないといけません。その25分以内企業訪問時に、人選した(する予定の)人との業務確認の引き合わせ時間をセッティングしないとならず、人選されていなくても、時間だけはもらわないといけない。もらえませんでしたと言おうものなら、もらえるまで帰ってくるなと言われ、土下座してでももらってこいと言われます。

これはかなり厳しく、それまで耐え続けてきた私も、レスキューが入り、ついに限界がきてしまいます。

とある外資企業からオーダーをもらいながらも「時間は人選ができてから」と頑なに譲ってもらえない企業がありました。普通に考えれば当たり前ですが、私のいた会社には当たり前も何もありません。もらわなければ、土下座をしてでも、もらえるまで帰ってくるなと言われます。

ついに内線電話でも取り次いでもらえなくなった私は、受付で膝をついて誰かが通りすがるのを待ち、お願いするしかなくなりました。しかし、通りすがり、お願いしても、追い出されるだけ。

追い出されたとき、私の体は動かなくなっていました。

その次に行かなければならないアポがある。なのに、時計の針がそのアポの時間を過ぎても、動けない。時計を見て、頭ではわかっていても、動かない。

支店長から電話があり、なんとか出て、怒られ、ただただ謝り、時間が経ち会社に戻りましたが、ショックのあまり何も考えられず帰りました。

その翌日、精神内科に行くと、中度のうつ病と診断されました。お医者さんに診断された内容へのショック、つらかったでしょう?と言われた途端涙がボロボロこぼれました。

週明け、何も考えることもできず、ただその診断書を支店長に渡しました。怒られると思っていましたが、支店長は、「守ってやれなくてごめんな」と言って、各種調整に動いてくださいました。そして、2ヶ月の休職に入ります。

2ヶ月、薬を飲みながら、すっからかんで過ごしました。ただ無力で、虚しく、両親にもきっとがっかり心配させただろうと思います。そして、支えてくれた同期、他でもないおかみさんがいてくれて、少しずつ体調は回復していきました。

うつ病は心の風邪とよく聞きます。
風邪なのかはわかりませんが、なってみて思うのは、それは思いもよらずいきなりやってくるもので、誰しもにやってくるもので、しかも、それは普通とか正常とかの感覚を失わせるものであるということです。

この経験から、自分自身と向き合うことの大切さを、自分自身を守るのは、自分自身でしかなく、人というものが、普通や常識では語れない、案外脆いものであることを学びました。その後うつ病などの精神疾患にはかかっていませんが、自身が苦しいときに、それを自覚して自身で対処することの大切さを学んだからなのだと思います。

その後内勤の仕事に復職します。
法改正で解禁された製造業派遣のための新会社の契約管理課。という部署名ですが、新会社の代表電話も受ける何でも屋さんの部署。

この部署は私含めて4人。マネージャー、先輩、同期。私はこの部署のおかげで、スムーズに復職し、仕事を学び、成長させてもらえました。

異動して少し経った頃、薬の影響もあって起きれず遅刻した時に、「おまえ、次やったら殺すよ?」とマネージャーに言われ、そこからふわふわした気持ちが消え、仕事に集中できたことを覚えています。この言葉が良いか悪いかはともかく、私はそのマネージャーの言葉にスイッチを入れてもらえたのです。そこに愛があり、真剣に伝えてくれた言葉だったからなのだろうと思います。

休職前はただ恐怖心でのみ出社していたのが嘘のように、その場所にいるときは、毎日会社に行くのが楽しみで、自分ごととして仕事をして、人と接して、喜んでもらえることが増えていきました。休職前の若い人ばかりの環境よりも、年次が上の人との接点が多かったことも、自分にとってよかったのだろうと思います。

その上司にも先輩にも同期にも、本当に感謝しています。あの時間が、私にとっての社会人の始まりでした。今もなお、飲みに行ってくださいますが、これからも末永く、仲良くしてやってほしいと心から願っています。

そこにやりがいと居心地の良さを感じていた数年を経て、私は異動となります。
それまでの日々から、プレッシャーも忙しさも格段に上がる、営業企画部という、営業幹部と密接な距離での仕事です。

指示のあったレポートを作るのも、30分あればできます!と言えば、「ほんなら10分でできるやろ。よろしく。がちゃ。」となり、守れないと怖い状況。スピーディなレポーティングのために、できなかった関数を必死で学びました。(それがその後のキャリアでめちゃくちゃ生きるスキルになるのですが)

とにかくわからないことばかり、それなのにプレッシャーだけは激しく強くなる。

月次の支店長会議で吊るし上げる支店長を決める。そのロジックを考え毎月副本部長に提案する。褒められるか怒られるかビクビクしながら。その支店長が詰められ病んでいくのを、支店長会議で見て、苦しくなる。

怒られる、詰められる、かつての恐怖心はまたじわじわと私の心を蝕み始め、また会社に行くのが怖い日々が戻りました。

気がつけば、日曜日の夜、会社の前に行き、1時間座り込んで、体を慣らして翌朝また会社に行く。そんな状態になっていました。

そんな苦しいだけの日々、私を可愛がってくれていたとある部門長が激昂しながら私の元にやってきました。そして、個室に連れていかれ、問い詰められました。

部門長「おまえの出した通達、あれなんで出したんや!言えっ!!」

私「本部長のご指示で。。。」

部門長「本部長がどうとか聞いとらん!
おまえがおまえの名前で出した通達やろが!おまえの出した通達一つで日本中の何千人もの営業が動くんやぞ!!なんで出したか言え!!!」

その怒号を受けた瞬間でした。
それまでの四年間、麻痺させていた「意思」が、眼を覚ましました。

入社以来、「おまえの意思などいらない」と言われ、理不尽なことの多さからも意思を持つほど苦しいと言い聞かせて過ごしてきました。このとき、何にも言えない、ただ人のせいにしかできず謝るしかできない自分。

「パァーン!」そんな音が聞こえた気がします。
涙が止まらなくなっていました。

その瞬間から、

「意思を持って生きたい」
「誰かのために、何かのために、自分で考えて自分で動いて仕事がしたい」

そして

「それができなければ取り返しのつかないことになる」

誰がなんと言おうと、そうなのだと、確信しました。

迷いなく転職活動を始めました。

「意思を持って生きたい」
「誰かのために、何かのために、自分で考えて自分で動いて仕事がしたい」

これだけの軸でした。
でも、迷いはありませんでした。
必死で応募して、いくつも面接を受けました。

そして、入社した採用のアウトソーシング企業。

「意思を持って生きたい」
「誰かのために、何かのために、自分で考えて自分で動いて仕事がしたい」

これが叶い、この喜びを知る転職となります。

そして、その後12年経ち、意思を持つ人を支えたい、持てずに悩む人を支えたい、それが生涯の仕事だと言える今を迎えています。

この転職は26歳のとき。言うなれば人生で初めて意思を持ったのが、私の場合は26歳。

今はプロの顔で、学生さんや若い方のキャリア支援をしていますが、とても偉そうに言える筋合いなどありません。

笑ってやってください。

(ちなみにこの人材派遣会社は、今は資本も経営陣も変わり、こんな会社ではないようです)

(つづく)


つむぐ

キャリアカウンセリング、採用支援、エージェント育成支援などを行っています。

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